なぜ彼らは抗議するのか

必死で息をしようとしている

Struggling to Breathe
2014年2月23日 Francisco Toro

(訳者注:この記事は、ベネズエラの知識人、作家の一人ででチャベスの伝記の著者でもあるアルベルト・バレラがEl Nationalに寄せた記事を英語に翻訳したものである。)


by アルベルト・バレラ・ティスカ
ごく主観的な翻訳
by フランシスコ・トーロ

「自己満のプチブルの奴らに、ベネズエラの若者の大多数に向って我らの祖国がどんな進路を取るべきかなぞ言わせてたまるか!我らの祖国が進むべき道は、2月4日(1992年 チャベスのクーデターが失敗した日)にウゴ・チャベスによって定められたんだ。」

これはビクトル・クラーク大臣が2月12日(のデモ)の少し前に、ヤラクイで叫んだことだ。彼は雄弁術をハバナで学んでいたにも関わらず、怒りがにじんで声のトーンはかすかに変わっていた。そのスピーチの中で、彼はテロリズムを非難し、実質的に国内の全ての大学における選挙で勝った学生たち*1をクーデターを企んでいるとして責め立てた。しかし、彼の主張の中で最高なのは、「歴史はすでに決まっているんだ。俺たちが先にクーデターやったんだ。うせやがれ」と言っている点だ。

訳注*1:ベネズエラでは、伝統的にこの手の学生運動のリーダーは大学における選挙で選ばれる。大学生は有権者でもあるので、学生運動を牽引する学生リーダーは政治的に無視できない存在である。

攻撃の被害者が攻撃の犯人にひっくり返るというひねくれたメカニズムは、抗議運動を違法とすることよりも重症だ。その根は深く、政府の「権力者にとって反対派は“民衆”(el pueblo)に入っていない」という考えの推進にまで至る。政府に対して盲目的に忠実であるという基準を満たして初めて、あなたは“民衆”となりえるのだ。それ以外は違法である。国家反逆罪も同然である。反対派であるということは、自分のアイデンティティを拒絶するということなのだ。だからこそ、あらゆる抗議運動はアプリオリに糾弾される。なぜなら、抗議運動をする人間であるということは、祖国と戦うということだからだ。

このことについて、私たちはもちろん、混乱と妄想だけを生み出すような旗印の元に人々を集結させるという大失態も加えなければなない。“la salida”、「出口」*2だ。レオポルド・ロペスは様々な種類の社会的な不満を巧みに利用し、彼のアジェンダを残りの反対派にも押し付けた。いくつかの効果的な演出法を使って、彼は国を停止させてしまうような過激な呼びかけを行った。しかしながら、どれもクーデターとはほど遠いものだ。政治的な過ちではあるかもしれないが、犯罪ではない。1994年にチャベスが刑務所から解放されたとき、彼は休みなく結集を呼びかけ、当時のカルデラ大統領の即辞任を要求してまわった。そしてそのとき、彼はもはやクーデターを企んでいたのではなかった。政治をしていたのだ。

訳注*2 学生運動が活発になってきたときに、政治家がこの議論に加わった。野党の政治的リーダーであるレオポルド・ロペスとマリア・コリナ・マチャダが市民集会を始め、これがラサリーダ「出口」と呼ばれている。

犯罪は別のところにある。しかし権力者はそれについて話すのを拒否している。オンブズマンも口を閉ざしている。彼らは証拠を一切示すことなく陰謀だと非難している。政府はいつでも証拠の前にスローガンをもってくるのだ。

政府がインターネット上のらんちき騒ぎを引き合いに出す方法には驚くべきものがある。昔に撮影された偽物の画像はあるし、他の場所で撮影されたものもある。それは真実だ。・・・だけど、それらは全ての画像についてではない。むしろ、それらは少数はだといえる。だからそれを理由に残りの現実を隠してしまうことは不可能だ。権力はわずかな歪曲を握りしめて目撃情報と現実の被害者の告発を否定する。実際に起こったことを隠すため、そして彼らの残忍な攻撃を正当化するためだ。

(検事総長の)ルイサ・オルテガ・ディアスが「政府の暴力は“自分の国を愛していない”ベネズエラ人のグループをターゲットにしている」と言って、それを問題としないことは、ただ恐ろしいだけでなく犯罪である。それは抑圧を正当だとしているのだから。そしてある種の感傷的な価値観すら植え付けるからだ。

実際には反対している側には全くそんな動きはないにも関わらず、政府が繰り返しているこれはクーデターだという主張は非常に効果的だ。制裁を是認する中で、抗議運動をする人を非難できる。しかしそのような態度は、その背後に死体と負傷者と忘れがたい恐怖の場面を残すことになる・・・その影響が消え去ることはない。血の跡をレトリックで洗い流すことはできない。

暴力の根源は、誰もコントロールできておらず、不透明で、国家プロジェクトを押し付けることにばかり躍起になっている国にある。迫害する国、不安な国は、あらゆる空間を侵略し、占領しようと決断した。他者を認識せず、自らと異なる立場の者を窮地に追い込むことは、別の形の暴力でしかない。

並行した権力を作り出すこと*3は暴力だ。2007年の国民投票の結果を故意に無視すること、そして人々によって拒否されたことを無理に実行することは暴力だ。メディア統制や新聞や新聞社を認めないことは暴力だ。そして、国防相が得意気に自分は“チャベス派”だと名乗ることは暴力だ。挙げていけばきりがない。

訳注*3:国家権力の一部ではない者に対して、国家権力に相当するような権力を認めること。具体的には民兵などの準軍事的組織を指している。

ここに陰謀が出る幕はない。あるのは、私たちの命を守ることだけだ。私たちを窒息死させることが統治計画の一つである限り、常に国の一部の人は必死で息をしようとあがくだろう。

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