二つのベネズエラ

影を和らげる

Taming the shadow
2014年2月26日 Audrey M. Dacosta

最近の混乱の日々の中で、Twitterに齧りつき、Facebookのコメントを読み、通りで人々の意見を聞き、そしてCNNEでの学生たちの討論を見て、ようやく私はベネズエラの分裂の深さを“理解した”。

15年にわたる戦時のような演説を経て、私たちは10年以上も和解することができずにいる二つの紛れもない国、二つの社会になってしまったのだ。それは単に意見が一致しないということではない。もっと深刻だ。

私たち両サイドは、お互いに相手の最も暗い部分を互いに投影し合っている。

カール・グスタフ・ユングは影を人格の暗く無意識の側面であり、意識的な自我に対応するものと定義した。それはしばしば嫉妬や欲深さ、肉欲といったネガティブな側面と関連づけられるが、ポジティブな側面(それを自我は“良いこと”として認識しないかもしれないが)を含んでいることもある。

心理学者のサム・キーンは彼の著書Faces of the Enemy (敵の顔)において、私たちが理由はよく分からないままに劣っているとみなす他者に対してこの影を投影することで敵を作り出す、社会的で個人的な過程について説明する。私たちは様々な方法で敵の人間性をはぎ取ってしまう。時に、敵を 伝説的な怪物や、伝説的な悪として表現し、時に神の妥当性を確認している人々だと考え、そして時に、私たちと彼ら共通の人間性すら無視し、彼らを単なる害虫のように根絶するべきものと考える。

敵を作り出すことで、民族浄化や魔女狩りや聖戦のための道はできてきた。私たちは自分自身の中の認識したくない部分や振る舞いを他者に転化する。そしてそうすることで、私たちはその反対の、善に、正義に、正当に、ヒーローに、そして光る鎧に身を包んだ騎士となる。逆に相手は不正に、過ちに、悪に、そして倒されるべきドラゴンとなる。その中間地点はない。そうか、そうでないか、黒か白か。

こういうことを考えていて、この最近の抗議運動の中で、コレット・カプリレスの言葉が心に刺さった。

「抗議運動の政治的な有効性が現れるためには、単に“正当さを要求する”ことではなく変化を促すものでなければなりません。それは、この社会の過去15年を特徴づけていたベルリンの壁のようなアイデンティティが除かれるとき、この“他者”という考えが消えるときなのです。」

この“他者”が敵なのだ。それ自体で噛み合うことができない二極化した国。その壁は越えられないものに見える。そしてこの状況にこそ反対派のフラストレーションもある。もし私たちが正しくて、私たちこそが道徳的に正しいのなら、どうしてもっと多くのチャベス派の人々に私たちの正義を信じさせることができずにいるのか?

国の半分の人々が悪であったり、道徳的に劣っているということがありうるのだろうか?多分、彼らはただ無料のプラズマテレビや洗濯機が欲しいだけなのだ。彼らは国のことなどどうでもいいのだ。でも私はどうでもよくない。彼らはわずかなお金のために買収されうるのかもしれない。でも誰も私を買収できない。彼らには教育を受けていない。でも私たちはこのいまいましい博士号を持っている。

さあ、全てを話した。これについて全て考えもした。同じように“あいつら”もまた、あなた達の悪と下劣さについて存分に考えてきたのだ。

だけどもし野党が本当に自分達が解決方法だと思っているのなら、新しい社会の原動力を求めて努力する必要がある。もし私たちが前に進もうと思うのなら、私たちは再び一つにならなければならない。そして、そうするためには、私たちは自分達の影を相手に投影するのを止める必要がある。そして自分達の影を取り戻し、それと一体になり、個人としても、集団としても私たち自身の元の姿に戻る必要があるのだ。

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