ドゥダメルのこと

このビデオは今年2月12日に行われたコンサートの音源に、その背後で起こっていた出来事などの映像を重ねたものです。

これを元に、ハフィントンポストにドゥダメルがマドゥロ政権を支持し、そのために多くの人から失望と批判の声が寄せられている件について少し詳しく書きました。実際に2月12日に平和的な抗議運動に参加していたにも関わらず、警察によって射殺された23歳の学生のことにも触れています。

ベネズエラの独裁政権を支持する話題の指揮者グスターボ・ドゥダメル

この件が難しいのは、芸術は政治や倫理から自由かどうか、という問題に絡んでくるからです。
私自身は、芸術は倫理には縛られないものだと考えていますが、一方で、常に政治的なものだと思っています。

ドゥダメルの才能を、彼の政治に対する姿勢のために否定するつもりはありません。ドゥダメルは素晴らしい音楽家です。そして、彼はベネズエラの独裁政権を支持しています。いくら素晴らしい音楽家でも、その政治的な考えは間違っている、と言うことはできます。

ただし、「ドゥダメルは音楽家だから政治には興味がなく、音楽のことしか頭にないはず」というのは、私は信じていません。エルシステマの広告塔の彼は、自分の役割を相当に心得ているはずだし、メディアでの彼の振る舞いはそれを十分意識しているように見えるからです。

ベネズエラのことを知らない人には、ドゥダメルは自分に関係ない政治の話に引き寄せられて非難されてかわいそうと思うかもしれません。
ですが、このビデオに見られる彼の2月12日の公演は、ベネズエラのコンテクストの中では芸術イベントではなく政治イベントでした。
「ドゥダメルはそれを知らなかった」というのはむしろ、彼を馬鹿にしていると思います。彼はあのコンサートの意味を知っていたし、知っていた上で指揮をした、それだけです。

 

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ドゥダメルのこと」への17件のフィードバック

    • 私を含め、誰も一言も沈黙することが罪であるとは言っていませんよ。

      多くの反政府の立場のベネズエラ人は、ドゥダメルは本当はマドゥロ政府を支持していないという考えに基づき、「彼が沈黙していることは卑怯だ」と批判しています。
      私の考えは、「もしドゥダメルが政府を支持していると考えれば、彼が沈黙するのも理解できるし、反対派から卑怯だといわれる筋合いはない。そしてドゥダメルには政府を支持する権利がある」というものです。

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  1. 沈黙自体が政府支持や不支持の表明にはならないのであれば、それは「もしドゥダメルが政府を「不支持」であるとか考えれば、彼が沈黙するのも理解できる」ということと同じということでしょうか?

    確かに罪という言葉は強い意味がありますが。それでは何故「沈黙が卑怯」なのですか?私は不勉強な人間ですのでいまいち理解に届かないところがあります。

    もう一つ指摘させて下さい。
    先だってのハフィントンポストで拝見した記事の中に
    http://www.huffingtonpost.jp/kanako-noda/post_7935_b_5544634.html
    「彼は音楽によって貧困から抜け出した国民的英雄」とありますが
    ドゥダメルってよくエル・システマによって貧困層からでたカリスマ的マエストロと誤解されますが、ドゥダメルは別に貧困層の出ではないですよ。

    貧困層からの出自→若き世界的マエストロ→故になぜ体制に声を上げないっていう構図はアイコンとしては作り安いとは思いますが。

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    • ドゥダメルが貧困層の出自でないというのは、私の調査不足でした。
      ご指摘ありがとうございます。

      「沈黙しているのは卑怯」という点についてですが、一つはベネズエラ経済の問題に由来し、もう一点は2月12日、ドゥダメルがマドゥロの前で演奏した日に、大学生が政府当局によって射殺されたことに由来します。

      現在、ベネズエラでは個人が政治的な意見を表明することは(つまりは政府を批判することですが)、とても難しくなっています。

      ベネズエラ経済は9割以上が石油産業で、石油産業は政府が独占しているので、人々はベネズエラ国内で生活を立てようと思えば、多かれ少なかれ何らかの形で政府と取引をしなければなりません。

      例えば、知り合いのベネズエラ人は、政府系企業に就職しようとしていたのですが、契約の際の土壇場で反政府運動デモなどに参加しないという書類にサインしなければならず、それを見て就職を諦め、今は無職です。
      ちなみに、国営企業に努める人は政府が企画するイベントや選挙キャンペーン、デモなどには強制的に参加させられます。参加しなければ、仕事を失います。

      また個人経営の人は、ベネズエラ経済の悪化とは別に、政府に反政府野党を支持したために仕事を干されている人もいます。

      政府と取引しなくて済むのは、外資企業で働く人か、すでに個人資産を多くもっている人だけです。

      ドゥダメルは富も名声も、生活基盤もすでにベネズエラ国外にあり、本人がその気になれば政府に反対を表明できる立場にあります。彼は政府から干されても飢え死にしません。

      これまでドゥダメルが反政府の立場を表明しないのは、彼がエルシステマの広告塔で、エルシステマの活動は政府からの資金提供によって成り立っているせいだと考えられていました。
      実際、エルシステマに参加する多くの子どもたちには、政府の援助が必要なので、きれいごとは言ってられないからです。

      ですが、2月12日にドゥダメルがマドゥロのために指揮をしていたとき、平和的な反政府デモに参加していた大学生バシル・ダコスタ君が政府当局によって銃撃を受け死亡しました。
      このようなことはチャベス時代にはありえなかったので、多くの人が衝撃を受けました。

      この一件で、それまでは「エルシステマのためなら政府を支持するのは仕方ない」と考えていた多くの人が、「たとえエルシステマのためでも、学生を撃ち殺すような政府を支持することは許されない」と考えるようになります。

      だからこそ、多くの一般人がリスクを承知で政府に反対を表明しているときに、安全圏にいながら、政府にいい顔をし続けるドゥダメルは卑怯だ、という話になります。

      確かに、ドゥダメルは人気でクリーンなイメージなので、今回特にやり玉に挙げられたという点は否めません。
      ただ人々が必死にドゥダメルを批判するのも、一重にドゥダメルが人気で、彼のことを信じたい人が多いことの表れだと思います。
      今さらマラドーナを真剣に批判する人なんていませんからね。

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  2. 丁寧なご返信有難うございます。

    「ドゥダメルは富も名声も、生活基盤もすでにベネズエラ国外にあり、本人がその気になれば政府に反対を表明できる立場にあります。彼は政府から干されても飢え死にしません」にお伺いしたいことがあります。

    システマの本流でありドゥダメルを輩出したシモン・ボリバル響はAオケ(国内編成)とBオケ(国外編成)に演奏できる背景に大きな地理的相違があります。まして同じ流れを組んでいるテレサ・カレーニョ響や子どものためのユース・オーケストラがベネズエラを主体として活動しているとあらば、ドゥダメルが政治的発言をすれば、マドゥロ政権が彼ら彼女らに対してどのような力が働くかは想像に難くはないと思います。

    詳しくは「世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ」東洋経済新報社を読んでみてください。
    寧ろ一体ドゥダメルのどんな立場を指しているのかを知りたいと思いました。

    沈黙してることでマドゥロ政権に対して支持か不支持か(あるいはキョーミが無い)かは明確ではありません。
    が、しかし沈黙しているのが卑怯であると判断するのは軽々ではないでしょうか?
    それでは「沈黙」以外に何を発言すれば外部に満足感を与えられるのでしょうか?

    私は「沈黙は又一つの言葉」と考えています。

    今は発言することが容易な時代だからこそ考えなければいけないことだと思います。

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    • >沈黙してることでマドゥロ政権に対して支持か不支持か(あるいはキョーミが無い)>かは明確ではありません。

      というのは、おっしゃる通りです。
      明確でないため、いろんな推測に基づいて批判と擁護が行われています。

      ただ「キョーミがない」というのは、ありえないと思います。
      興味なくマドゥロ政権のプロパガンダに加担しているのであれば、そのような無責任な態度は公人として厳しく批判されるべきです。それほどに、ベネズエラ政府のメディア規制と言論統制は徹底しており、厳しいものです。

      >沈黙しているのが卑怯であると判断するのは軽々ではないでしょうか?
      >それでは「沈黙」以外に何を発言すれば外部に満足感を与えられるのでしょうか?

      ベネズエラのメディアの状況を考えると、私は軽々しくないと思います。
      政府に反対の声を挙げることがこれだけリスキーで、困難にも関わらず、名もない多くの人が声を挙げています。
      そのような状況の中で、ドゥダメルには、その世界的な知名度からも、社会的に重要な役割を担う文化人としての個人の意見が社会から求められています。

      日本ではよく北野武が無関係な政治問題に対してコメントを求められていますよね。
      あくまで例えですが、もし北野武が原発推進活動に深く関わっており、原発事故が起きたとします。そんな中、彼が海外で映画賞を受賞するとなれば、海外のメディアは必ず彼に対して、原発の問題に対するコメントを求めるでしょう。
      もしそこで、彼が沈黙を通せば、日本国民の反応はどうでしょうか?原発事故で被害にあった人はどう感じるでしょうか?

      今回のドゥダメルへの批判のきっかけとして、ベネズエラ人ピアニストのガブリエラ・モンテロが公開書簡という形で、同じように国際的な舞台で活躍する音楽家という立場からドゥダメルを批判し、ベネズエラ政府を批判しました。
      これに多くの人が共感し、同調したという背景もあります。

      日本では発言することは容易です。
      でもベネズエラでは、発言は容易なことではありません。
      発言主体として個人を特定されれば、場合によっては監獄行きです。

      このブログでも、ベネズエラ在住の方に「べ日子のカラカス日記」として日記を書き下ろしてもらっていますが、匿名にしているのはただのネット上のハンドルネームという以上の理由があるのです。

      この状況では、沈黙は一番簡単な方法です。
      多くのベネズエラ人は自分を守るため、自分の家族を守るため、沈黙しています。

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  3. ドゥダメルって公人なのですか?
    公人なら政治に対して正しい正しくないと言うべきですね。
    私は指揮者が公人とは考えたことがありませんでした。

    個人的には北野武さんが原発問題にどのような発言をしても、どーでもいいと思います。だって彼は政治家ではではないのですから。

    そもそも多くの人が共感し同調してもそれが是であるとは限りませんよ。

    先にも言いましたが軽々な発言ができないのはドゥダメルというよりは、ご指摘されたようにドゥダメルを含めた「多くのベネズエラ人は自分を守るため、自分の家族を守るため、沈黙してい」るのであって我々第三者のように当事者が政治的な発言を軽々にするわけにはいかないと思いますし。単純に第三者(外部)が発言の内容によって満足するような問題ではないと思います。

    公人ならばそこで発言すべきと言いたいところでしょうが。

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    • 今確認したのですが、日本語では公人の定義が政治家や公務を行う人という意味なんですね。私は公人を英語のpublic figureの意味で用いていました。
      公人とpublic figureの違いのために話が食い違っているのだと思います。

      いいね

      • 言葉の認識に対してあれこれいうのは瑣末なことなりますのでこれからは控えさせていただきます。
        ではもうひとつ「沈黙は一番簡単な方法」とおっしゃいましたが、事象の良し悪しを「判断」ではなく「発言」の有無で考えることは、想像力の欠如した綺麗事を発言できる第三者(私を含めた)としてしか思えてなりません。

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  4.  ここ数年エル・システマに興味をもち、少し調べている者です。日本語で書かれたベネズエラの政治状況に関する文章がとても少ないので、このブログも最近発見し、興味深く読ませていただきました。しかし、ドゥダメルについての批判的文章には、同意できないものを感じるので、意見を書かせていただきます。
     紹介されている英文の記事なども読みましたが、ドゥダメルが、マドゥロ政権を支持しているという「評価」は間違いではないでしょうか。丸山真男の「不作為の作為」という規定もありますが、丸山自身戦時中、表立って軍国主義を批判したわけではなく、研究室に籠もって、軍国主義批判の武器となる研究を静かにやっていたのであって、彼が公然と見解を表明するのは、戦後に言論の自由が認められてからのことです。彼自身の戦時中の沈黙をも「不作為の作為」として非難する意味ではなかったはずです。
     現在のドゥダメルが批判されている状況は(今でも強く非難されているとしたらですが)ナチス政権下のフルトヴェングラーやカラヤンとある面似ているといえるでしょう。カラヤンはずっとナチス党員だったことを批判されていましたが、ベルリンフィルのシェフになったラトルが、そのことについての意見を求められて、「当時生きていなかった我々が安直に意見をいうことではない」と、私の解釈では、暗にカラヤンを擁護しています。カラヤンがナチス党員になったことは当然だとは、全く思いませんが、当時の状況を考えれば、仕方なかったのだろうとまでは思います。ユダヤ人だった妻を最後まで守ったわけですから、ナチス主義者ではなかったことは明らかであり、公務員(ドイツの指揮者は国家公務員)になるためには、党員であることが条件であったわけですから、失業中であったカラヤンが、党員となる選択をしたことは、少なくとも安全な状況にいる人間が簡単に批判できることではないように思うわけです。
     ドゥダメルはどうでしょう。彼は、支持も批判もしていない、つまり「沈黙」しているわけです。沈黙は支持だ、というのは、批判者の立場からすれば自然でしょうが、支持しろと強要するのは、それこそ、思想の自由を冒しているといわざるをえないと思います。もちろん、それはエル・システマをどう考えるかということと関連しており、エル・システマの性格によっては、異なる意見もありうるでしょう。
     エル・システマをチャベス主義と密接不可分の関係と理解すれば、沈黙=支持という批判も成立する余地はあると思います。しかし、エル・システマは決してチャベスが始めたわけではなく、チャベスが政権をとったときには、既にベネズエラ社会にしっかりと根付いていた活動です。むしろ、始められたときのペレス政権は、チャベスとはかなり異なる性格をもった政権であり、かなり揺れた諸ベネズエラ政権にもかかわらず、すべての政権がエル・システマの援助を拡大してきたのです。だから、エル・システマを守ることは、決して現在のマドゥロ政権を守ることではないと、エル・システマのひとたちは考えているはずであり、私もそれを支持します。もちろん、まったく新しい行事を、マドゥロが始めて、ドゥダメルに協力を求め、それに応えたというのなら、「支持」したのだといえるでしょう。しかし、批判の根拠となった演奏会は、エル・システマ誕生を記念する、毎年行なわれる演奏会で、いってみれば、ずっと前から決まっていたものです。それを、政権不支持を理由にドゥダメルが拒否したら、エル・システマはどうなるでしょう。現在40万近い子どもたちが参加し、それが社会の安定のために役立っていることは、多くの人によって認められているのです。独裁者がドゥダメルの対応を怒って、エル・システマの支援をやめたりしたら、その子どもたちは逆に危険な状況にもどらざるをえなくなる危険性もあります。
     北朝鮮を例に考えてみましょう。
     北朝鮮から脱北すると、残された家族が強制収容所にいれられたり、最悪の場合処刑されるといわれています。それを考えて、北に留まっている人を、北の支持者だと非難するのでしょうか。あるいは逆に、家族が処刑されることを厭わず脱北した人を英雄だと賞賛するのでしょうか。脱北するかしないかは、それぞれの個人がぎりぎりのところで判断することであり、安全な所にいる第三者があれこれいうことではないと、私は思うのです。もちろん、北朝鮮の抑圧的独裁政治を積極的に支持表明をしていたら、強く批判・非難すべきものですが。
     ドゥダメルは、エル・システマの象徴的存在であり、また、音楽面でエル・システマを支えている重要な一人です。エル・システマが大きな成果をあげていることは、国際的にも広く認められており、エル・システマを守る意識で行動していることは、明らかでしょう。そして、エル・システマは、政府の理念的立場からは独立して、「政府」という性質を失わなければ支援されるという信念があるのだと思います。そういうとき、ドゥダメルのような人は、「沈黙」が最も妥当な選択なのではないか、と私には思われます。そして、何もいっていないのではなく、英文記事によると「暴力は支持しない、平和を支持する」というようなことを述べているそうです。

    いいね

    • コメントありがとうございます。

      ここにコメントしていただいたのと同じ理由からドゥダメルを擁護する人は、以前からベネズエラにも沢山います。
      そして今でも文化関係の議論になるとしばしば話題に上がります。
      カラヤンの例に触れられることもしばしばです。
      (ベネズエラの現状を考えれば、さすがにナチス政権化のプレッシャーと比較するのは行き過ぎの感じもしますが)

      それらの議論は私も理解していますし、以前は私もそこまでカリカリすんな、程度に思っていました。

      私が調べて記事にした元東大生によるベネズエラ音楽ツアーでも同様の議論がありました。
      https://venezuelainjapanese.com/2014/07/31/estudiantinakomaba/

      http://caracaschronicles.com/2014/07/31/39030/

      今年の2月の一件を見て、ぶっちゃけ私はドゥダメルの態度にドン引きしました。
      「暴力は支持しない、平和を支持する」というメッセージは、政府が「平和コンサート」と題したコンサート会場で抗議をしていた学生に対して発砲するような状況では何の力もなく、虚しいだけです。

      勿論、捉え方は人それぞれで、本当のところは分かりません。
      ですが、私には自己弁護以外に聞こえず、ドゥダメルには幻滅しました。

      そして何度も書いていますが、「エル・システマを守る意識で行動していることは、明らか」と言うのも、結局のところドゥダメルを擁護する反政府野党を支持する人の憶測にすぎません。

      そもそも、政府を支持する人にとっては「当然、ドゥダメルは革命を支持してますよ」という話なのです。
      この点について、私は反政府支持の人よりも、政府を支持する人と同意見です。

      いいね

      •  ご返答いただきありがとうございます。
         kanako様が、ドゥダメルに失望し、ドン引きするのは、ご自由です。しかし、事実は正確に認識される必要があり、いくつかの誤解があると私には思われるのです。
         カラヤンについて、ナチスのほうがひどく、マドゥロ政権はそれほどではないのだから、もっとドゥダメルは気軽に反対行動ができるはずだと、お考えのようですが、私は、まったく逆だと思っています。だからこそ、例に出したのです。カラヤンは、ナチスによって弾圧されたわけではありませんし、また、党員になることを強制されたわけでもありません。ただ、ウルムの歌劇場の指揮者を解任され、失業状態でした。外国にいって活動するという選択肢は、若い失業状態のまだ無名の音楽家にとって、難しい選択だったでしょう。でも、そういう選択はあったし、生きるだけなら、いろいろな道があったかも知れません。ただ、彼は、有り余る才能を信じていたし、指揮者としての自信があったので、なんとしてもドイツで指揮者として活躍したかったのでしょう。そのために必要だから党員になっただけで、政治的にナチスを支持していたわけでもない。つまり、カラヤンが背負っていたのは、自分の生活だけだったのです。しかし、ドゥダメルはどうでしょうか。確かに、彼はマドゥロ政権を批判しても、個人的には何も困らないでしょう。しかし、彼が背負っているのは、自分の生活ではなく、40万近い子どもが参加し、生きがいをそこで見つけ、安全な生活を保障されているエル・システマそのものなのです。
         kanako様は、2月12日の演奏会が、芸術イベントではなく、政治イベントだったと書かれています。その根拠は何でしょうか。大統領が出席したからですか?もちろん御存知だと思いますが、この日は、エル・システマが誕生した日であって、毎年、それを記念した演奏会を開いているのです。そして、大統領が出席するのも、普通のことでした。何故なら、エル・システマは、政府が大部分の費用を負担しているからです。そして、前のコメントにも書きましたが、ベネズエラの政権は、全く異なる立場が入れ替わるような変化をしてきました。しかし、どのような政権であっても、エル・システマへの援助は行い、かつ、このような演奏会に大統領が出席してきました。そうすると、エル・システマ関係者は、まったく間違ったことをやってきたのでしょうか。それとも、政府の性質によって、エル・システマの演奏会の政治的意味が、その都度変化するとお考えなのでしょうか。そして、そのように理解した上で、政府に賛成するなら演奏をし、反対するならしない、というような態度をとるべきだと、お考えでしょうか。私は、そのような態度は、エル・システマのような運動にとって、まったくとるべきではないと考えるのです。何故そう考えるかは、kanako様と意見の相違があるなら、もう少し詳しく説明させていただきます。
         とりあえず、私は「芸術イベント」だったと解釈しており、その線で前に戻ります。
         ドゥダメルは、エル・システマを象徴する人物であることは、広く認められ、かつ、国際的に有名人であり、「世界への影響力」をもった人物として取り上げられるような人物です。だからこそ、反政府の立場からすると、当然政府批判をやってほしいということなのでしょう。
         しかし、前に書いたように、ドゥダメルが背負っているのは、40万人の子どもたち、そしてそこで働いている数千人の教師や事務のひと達なのです。反政府のひと達が、ドゥダメルを大きな存在と見るように、政府だってそう見ているでしょう。そして、そのドゥダメルが公然と政府批判をやったら、政府の事業として行なわれているエル・システマに対して、政府が抑圧的な方針に転換する可能性がありますね。その可能性は皆無でしょうか。皆無だと考えるなら、それこそ能天気で無責任な考えではないでしょうか。あるいは、そうなったとしても、人が殺されているのだから、そちらの方が重要で、エル・システマがそうなっても仕方ないということでしょうか。エル・システマは、犯罪に巻き込まれる可能性から、子どもたちを救っているが故に、社会的支持を得ているわけですから、エル・システマが機能しなくなれば、それだけ子どもたちは危険に晒され、それこそ流れ弾にあたって死ぬ可能性だってあるのです。
         ドゥダメルが状況を認識した上で、自分の対応を決めている、というのは、私もそう思います。訴訟社会アメリカに住んでいるのだし、また、エル・システマ関連の弁護士もたくさんいます。そういうひと達と相談もしているでしょう。そういう中で「沈黙」を選択しているのは、エル・システマに与える影響を考えてのことだと、私は解釈しています。
         最後に、「「暴力は支持しない、平和を支持する」というメッセージは、政府が「平和コンサート」と題したコンサート会場で抗議をしていた学生に対して発砲するような状況では何の力もなく、虚しいだけです。」という部分ですが、「平和コンサート」というのは、エル・システマの理念からすれば、当然のことで、暴力ではなく、音楽で社会を変えようというのがエル・システマの理念ですから、何も、反政府運動を抑圧する手段として、マドゥロが採用したスローガンでもないはずで、そのことが、反政府運動への弾圧で死者が出たことに対して、ドゥダメルが責任を負わねばならないことでしょうか。そして、「虚しい」というだけでしょうか。ドゥダメルへの批判があるとき、当然、エル・システマに参加している子どもたちは、批判を気にしていると思います。そういう中で、「平和を支持する」というメッセージは、子どもたちに対して、大きな励ましになっていると、私は思いますし、また、私は、ドゥダメルのような立場の人間ができる、ぎりぎりの政府の「弾圧に対する批判」であると理解しています。
         ドゥダメルが大々的に政府批判をした結果、政府がエル・システマの方針転換をして、抑圧する態度にでる可能性について、どのようにお考えか、聞かせていただけると、ありがたいと思います。(念の為、東大生の活動を支持するものではありません。)

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  5. まず第一に、政府の人間が公に参加するようなイベントで政治的でないイベントなど、今日のベネズエラでは存在しないと思います。
    これがエル・システマが誕生した日であり、毎年行われていたから、という理由でこれが単に芸術のイベントだという認識はベネズエラの現状にそぐいません。
    エル・システマに限らず、その他の伝統的な祭でさえ現在ではことごとく政治化されています。

    ドゥダメルが政府を批判すれば、政府はエル・システマを抑圧するのではないか、という点については、ドゥダメル一人の政治的意見によって、国の宝であり、国際的にここまで知名度が高いエル・システマを政府が抑圧する可能性は低いと私は考えています。確かに可能性は皆無ではないですが、低いと思います。

    ドゥダメルは確かに人気者ですが、エル・システマの全てではなく、広告塔にすぎません。エル・システマがチャベス時代を生き延びたのは、アブレウ氏の政治的手腕と彼の不動の権威によるものだと言われています。
    だからマエストロ・アブレウがエル・システマとして政府を批判するという政治的選択をしない限り、つまりアブレウがエル・システマとして政府とうまくやっていくという選択をする限り、政府はエル・システマには手を出さない(あるいは出せない)のではないでしょうか。

    ただドゥダメルがマドゥロ政府と故チャベス大統領を非難するようなことがあれば、彼個人としては、ハーバード大学の経済学者ハウスマン教授のように、思想的テロリストに認定されるようなこともあるかもしれませんが。

    エル・システマがなければ貧しい子どもたちが困る、という点については、そもそも、政府が貧困層での犯罪対策を放っているから多くの子供が犠牲になっているのです。
    一連の抗議運動の発端も、安全な生活を脅かされた人々が政府に対策を求めたことでした。
    さらに残念なことに、ベネズエラでの貧困層の人々の数はここ数年増加しており、貧困層の子どもたちの環境はますます悪化しています。

    エル・システマが貧しい子どもたちにとって重要な意味をもつことに疑問の余地はありません。しかし、エル・システマの存続のため、つまりは金のために、自分達の生活を悪い方向に導く政府に黙って従え、というのを子どもたちに伝えるというのは本末転倒ではないでしょうか。

    さらに言えば、現政府の方針では、中流層は政府の敵なので、貧しい人には政府の援助を受け、政府に投票する貧困層のままでいてもらわなければ困るのです。貧困層を中流層にするのは政府の求めるところではない、というようなことを、ある大臣が発言して問題になっていました。

    むしろ、ここで子どもたちに伝えられている価値観は、「甘い蜜を吸いたければ政府にさからうな」に見えます。

    ドゥダメルの「平和」というメッセージが現に貧しく悲惨な環境で生き延びようという子どもたちに対して励みになっているのなら、少しは救いがあるでしょう。ぜひそうであってほしい。
    でも、ハードコアな暴力にさらされた厳しい環境で生活している子どもたちにとって、ドゥダメルの「平和」メッセージがどれほどの意味があるのか、私には疑問です。

    いいね

    •  素早いご返答ありがとうございます。

       「まず第一に、政府の人間が公に参加するようなイベントで政治的でないイベントなど、今日のベネズエラでは存在しないと思います。」とのことですが、ずいぶん極端なことを断言するのですね。しかし、私への返答の第一回には、「ここにコメントしていただいたのと同じ理由からドゥダメルを擁護する人は、以前からベネズエラにも沢山います。」と書かれていました。「沢山いる」が一日で「存在しない」になるのですか?私の書いた表現も厳密には違うわけですが、込めている意味は全く同じです。「政治的なイベント」ではなく、「芸術的イベント」だから、それを行なうことが、マドゥロ政権を支持することに、直接つながるわけではないという趣旨は、全く変わりません。にもかかわらず、そういう風に考える人が、「沢山いる」からすぐに「存在しない」に変わってしまうということは、どういうことでしょうか。
       「これがエル・システマが誕生した日であり、毎年行われていたから、という理由でこれが単に芸術のイベントだという認識はベネズエラの現状にそぐいません。エル・システマに限らず、その他の伝統的な祭でさえ現在ではことごとく政治化されています。」という表現も、私には少々同意できないものを感じます。
       少なくとも、エル・システマ関連の演奏会が、「芸術的イベント」であることを否定されているわけではないでしょう。「単に」と書かれているわけですから。もちろん、私も「単に」とは思いませんし、ある意味「政治的」であることは、エル・システマの当初からアブレウ自身がめざしてきたものでした。しかし、それは、kanako様が考えているらしい、「政治的」という意味では、全くないと考えています。おそらく、kanako様は、時の権力が自分への支持を広げるために利用しているという意味で、「政治的」と使っているのではないかと想像します。(違っていたら指摘してください。)しかし、アブレウがめざしていた政治的というのは、音楽を通して社会変革をする、音楽をすることで、人間的に成長し、未来を切り開くことができる、そうした「運動」として「政治的」なのです。もちろん、時の政権が、それを支持し、その成果を誇示してきたことは間違いありません。しかし、それは、ペレス以後のすべての政権が同じであり、多くの人が支持する、良い意味での「政治的」ということができると思います。マドゥロが行なっている暴力的弾圧を反対するために、ずっと継続的に行なわれている優れた政治についても否定するというのは、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という感じがします。単なる政争としての政治化をすべきものでないものを、政治的に利用するという意味では、マドゥロ批判をしている人も同じではないでしょうか。
       ドゥダメルが、マドゥロ批判をしたときに、大統領がエル・システマを抑圧する可能性について「確かに可能性は皆無ではないですが、低いと思います。」ということですが、「可能性は低い」とする根拠は何でしょうか。「国の宝であり、国際的に知名度が高い」ということが、何故抑圧しない理由になるのでしょう。kanako様のマドゥロ評価は、暴力的な独裁者であり、国際的な評価が悪くなることが明らかでも、デモに暴力を振るい、死者まで出すのを厭わない残虐な大統領なのですね。そんな人を信用しているのですか?
       もちろん、私も高いとは思っていません。でも、kanako様は、私と同じように、「ある」と思っているのですね。もし、あったら、そのような事態に対して、どのような責任を感じますか?こんなところで、自分がいったところで、責任などとは無関係だと主張されますか?またその可能性を考慮した、ドゥダメルの慎重な姿勢を、「ある」と思っている人が、なぜ、批判できるのでしょう。
       「ドゥダメルは確かに人気者ですが、エル・システマの全てではなく、広告塔にすぎません。エル・システマがチャベス時代を生き延びたのは、アブレウ氏の政治的手腕と彼の不動の権威によるものだと言われています。だからマエストロ・アブレウがエル・システマとして政府を批判するという政治的選択をしない限り、つまりアブレウがエル・システマとして政府とうまくやっていくという選択をする限り、政府はエル・システマには手を出さない(あるいは出せない)のではないでしょうか。」
       ドゥダメルは、「広告塔にすぎない」存在ですか?そして、「広告塔にすぎない」人に、なぜ、あえて危険な「政治的発言」を求めるのです?
       そして、次のアブレウについての記述は、まったく事実誤認であるように、私には思われます。上の文章は、チャベスがエル・システマを潰そうとしたのを、アブレウの政治的手腕で生き延びることができたのだ、というように読めます。しかし、エル・システマが出発してから以後の歴代大統領で、明らかに、チャベスが最も積極的にエル・システマを援助し、拡大政策をとったのが事実です。それはチャベスの政治理念とエル・システマの理念が、かなりの程度重なっていたからです。
       そして、最後の文は、私のような単純な人間には、まったく理解不能です。「ドゥダメルは、マドゥロをとにかく批判せよ、それによって起きる不都合は、アブレウが解決するから」ということですね。では、何故アブレウは、マドゥロと「うまくやる」ことを、kanako様は批判しないのでしょう。アブレウこそ、エル・システマの最高責任者ですよ。そして、かの演奏会には、アブレウも出席していたはずです。重病でもない限り。アブレウは重要な演奏会は、必ず前の席で聴いています。もし、あの演奏会がけしからん政治的ショーであるなら、何よりも責任者であるアブレウに「批判せよ」「そんな演奏会やるな」というべきではないでしょうか。そういう声が、ドゥダメル批判者に、あまり見られないのが、私には実に不思議なのです。まったく矛盾していると思います。
       
       ここまで、昨日書いたのですが、あとは、結局、チャベスをめぐる評価こそが、最も大きな違いなのだと思い、それはまたじっくり書く必要があるので、ここでやめました。政治的ということをどう考えるかということも、それに関わっています。それを書くのは金曜日になります。それで、以下エル・システマに関わる次の点のみ、質問を述べさせていただきます。
       「むしろ、ここで子どもたちに伝えられている価値観は、『甘い蜜を吸いたければ政府にさからうな』に見えます。」
       エル・システマは、子どもたちにとって「甘い蜜」なのですか?それはどういう意味でしょうか。ベネズエラ・ウッォチャーであるkanako様は、もちろん十分御存知のことだと思いますが、エル・システマに参加する子どもたちの60%から70%は、貧困層だと言われています。これは、逆に30%から40%は、中間層や上層の子どもたちだということです。kanako様によれば、チャベスやマドゥロ政権が「敵視」している中間層や上層から多くの子どもたちが参加していることを、どのように評価されますか。おそらく、中間層や上層の子どもたちが、エル・システマに参加する意識は、音楽教育の秀でた側面に惹かれてのことだと思います。貧困層の子どもたちの参加理由は、まずは、危険な地域での安全を確保するためです。そして、喜びのない生活の中に生きがいをつくりだし、そして、未来を切り開くことができるからです。そういう可能性を援助されるのは、「甘い蜜」として非難されるようなことなのでしょうか。もし、それがぎりぎり「甘い蜜」だとしても、それを吸っているのは、お金があるのに、無償で楽器も貸与され、授業を受けられる活動に参加している中間層や上層の子どものほうではないでしょうか。もちろん、私は、それを甘い蜜を吸っているなどと解釈していませんが。

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      • 「ここにコメントしていただいたのと同じ理由からドゥダメルを擁護する人は、以前からベネズエラにも沢山います」
        というのは、「ドゥダメルはエル・システマの子どもたちのために政府とつるんでいるだけで、ドゥダメルは悪くない。倫理的に責められるべきでない」という点についてで、これは「政府の人間が公に参加するようなイベントで政治的でないイベントなど、今日のベネズエラでは存在しない」とは矛盾しません。

        極端に聞こえるかもしれませんが、この極端な状況が現在のベネズエラですので、そこを否定されても何とも申し上げようがありません。

        また「甘い蜜」としたのはエル・システマだけでなく、政府と国民の関係性全般について述べたつもりでした。
        テレビや洗濯機が欲しければ政府に投票せよ、無料で医療が受けたければ政府に逆らうな、こうして物やサービスを使って国民の自由意志をねじ伏せるというのがチャベス以来のベネズエラの政治方針です。
        エル・システマに参加する子どもたちも、この現在のベネズエラ社会のしくみをよく分かっているでしょう。

        私とwakei様ではベネズエラ社会に対する認識やエル・システマに対する認識が異なり、これは議論して一致させることができるものではないと思います。
        ですので、エル・システマとドゥダメルについて、これ以上議論しても無駄だと思います。私からはこれ以上述べることはありません。

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  6.  いずれあなたが白旗をあげるのはわかっていましたが、こうも早く来るとは思いませんでした。私がここで書こうと思ったのは、「つつm」さんの最後の言葉、「ではもうひとつ「沈黙は一番簡単な方法」とおっしゃいましたが、事象の良し悪しを「判断」ではなく「発言」の有無で考えることは、想像力の欠如した綺麗事を発言できる第三者(私を含めた)としてしか思えてなりません。」に至るあなたの軽く、責任を感じない言論と、それでも世界に発信している影響力とを考慮してのものです。
     あなたの最後の書き込みは、ずいぶんと逃げ口上であるし、例えば、私の「エル・システマは甘い蜜なのか、それはどういう意味かという問いに、「また「甘い蜜」としたのはエル・システマだけでなく、政府と国民の関係性全般について述べたつもりでした。」という回答は、完全なはぐらかしですね。そして、最も聞きたかったアブレウのこと、チャベスとエル・システマの関係については、全く無視ですね。エル・システマやベネズエラに対する認識が違うのは、当然で、だからこそ、議論の意味があるのでしょうが、あなたは、単にベネズエラや、特にエル・システマのことは、あまり知らないでものをいっているだけだといわざるをえません。そもそも、エル・システマのことよく知ってものをいっているなら、ドゥダメルが貧困層の出身であるなどという、基本的な誤りをしているはずがありません。また、チャベスがエル・システマを抑圧したという認識をもつはずがありません。ベネズエラ社会についても、スペインの植民地から、独立、その後の独裁政治の変遷、新自由主義との関わり、従属論等々、歴史的・社会的背景をしっかり理解した上で、ものをいっているようにはとうてい思えません。だから、質問すると、すぐにうわっつらの回答がかえって、突っ込まれるのです。
     何よりも、認識が異なるから議論が無駄だ、などという人が、ドゥダメルを非難するなどということが、私には非常に不思議です。違う立場のドゥダメルに、あなたはなぜあれこれいえるのか。
     それよりも、ドゥダメルを単なる広告塔と呼んだり、日々ものすごい努力での練習を積み重ねて、未来を切り開こうとしている40万の子どもたち、それを献身的な活動で援助している数千の教師たちに対するものの言い方(甘い蜜)は、ほんとうに彼らを侮辱するものだ。
     日本では、本当に知られていないベネズエラの情報を紹介していることについては、すばらしいと思います。しかし、それなら、自分の言論に重い責任を感じて、詳細に調べた上での紹介を心がけてほしいと思います。
     議論打ち切りということで、ここはあなたの場ですから、これで終わりにします。金曜日にもう一度書くと予告したので、とりあえず書かせていただきました。
     もし、しっかり勉強して、私を説得しようという気持が起きたら、私のブログにおいでください。私は打ち切りなど決してしませんから。

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  7. 拝啓 初めて参加させて頂きますが、貴サイト様の様な非常に真摯な態度で事に臨むところは珍しく、勉強させて頂きました。ことの本質からは外れるかも知れませんが、自分はクラシック音楽を聴き始めた小学生の頃から周囲と激論戦わしたのは「音楽と政治とは無関係」と。この思考は常に全敗でした。これはよく考えれば「音楽とは?特に西洋クラシック音楽とは絶対的にキリスト教の影響を受けていた事」つまり「宗教と政治は表裏一体のもの」だからですね。つまり音楽とは否音楽なんてぇそういうものだと。早く言えば「犯し犯されつつある関係=アナログレコードディスクと針の様な関係」といえます。確かにベネズエラではそんなもん関係無ぇやと言うかもしれませんが、やっている音楽はやはりクラシック中心。免れませんね。自分が過去幼稚園から始めたピアノを弾いて「某革新系政治団体のオルグ」でピアノを弾いていた頃感じたのは「実に旨くたくみに音楽を利用しているな」と。過去こうしたディレクションに巧みだったのは「ヒットラー」でしたね。ピアノも旨く音楽的才能やその効果を知っていたからこそフルトヴェングラーまで引き込めたのです。悲しいかな「部外者であり安全圏にいる我々が何を言っても、最終的には彼ら自身が自身の責任で決めて行うこと」であり、自分としては「ただドゥダメル氏の音楽を聴く」しかありません。氏の音楽は全く独自の表現でありあまりの相違に驚かされますが、これせも真実です。氏には期待しています。こういった極めて難しい難題中の難題には、性急な結論は避け、相手の立場に立って考えてみる事こそ必要ではないでしょうか。今後も貴サイト様には勉強させて頂きます。敬具

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