われはブロガー

しばらくブログを更新していませんでしたが、この間もベネズエラでは多くの出来事がありました。残念ながら、多くのベネズエラ人にとって状況は日に日に悪化しています。

このブログでも何度か伝えている物不足は、ますます深刻のようです。政府による日用品の低価格設定が一部改正され、値上げが実施されましたが、物不足解消のきざしは見られません。

医薬品不足はさらに深刻で、現在は頭痛薬が手に入らないと聞いています。糖尿病患者やHIV感染者など定期的な投薬が必要な慢性病患者の人々の状況は言うもがな、悲惨です。
病気と無縁で暮らす人もいるでしょうが、親としては「子どもが病気になったときに必要な薬が得られなかったら?」という不安を常に抱えた生活を強いられる状況は、想像するだけで辛いです。

政局の話題、野党の分裂、石油問題、外交問題、メディア買収の噂、麻薬カルテルを仕切る政府高官の逮捕と釈放、頻発する殺人事件。日本の状況と比べると、想像を絶する馬鹿げた事件やひどい事件、ゴタゴタは尽きることがありません。

よくいつまでこの状況が続くの?と聞かれますが、現時点では良くなる兆しは全く見られません。
将来的には少しはマシになるのか?それも分かりません。

このような状況の中で、ただでさえ一般の関心の低いベネズラの、気の滅入るようなニュースしかない国の状況を追い続けることに意味があるのでしょうか?

この問いは、ベネズエラ人でなくても、ベネズエラに関わりベネズエラについて考える人間にとって大きなテーマです。
なぜなら、絶望的な状況の中で延々とベネズエラに考え続けることは、人々の精神を蝕むからです。
このブログを始めてまだ少ししか経っていませんが、それでも毎日毎日、ベネズエラの悲しいニュースを追い続けていて、私も時々、とても虚しい気持ちに襲われます。

そこで、今回は仕切り直しの意味を込め次の記事を紹介したいと思います。Caracas Chronicle現代表フアン・ナヘルが今年の7月にドイチェ・ヴェレ・グローバル・メディア・フォーラムに参加した際に書いたものです。

先立って、Caracas Chroniclesは立ち上げから現在まで完全に非営利のブログであり、メディアとしての独立性を維持するという観点から広告収入も一切得ていないこと、取材費、ブログの維持費などは全て執筆者の自己負担で賄っていることを記しておきます。


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I, blogger
2014年7月3日 Juan Cristobal Nagel

このブログはざっと10年以上続いている。この間、私たちは皆、他の活動に費やせたはずの気の遠くなるような時間をこのブログに盗られてきた。それはライターや編集者だけでなく、あなたたち、つまりコメントを書いてくれる読者のみんな(特にその中の数人・・・それが誰かは本人がよく分かってるはず)にもいえる。

にも関わらず、今も私たちはこのブログを書き続け、また読み続けている。私たちにとってこのブログは尊いものであり、またこのブログが何かの役に立つと信じているのだ。

だが、結局のところ、ブログとは何なのだろう?ブログを通じて、私たちは何を成し遂げたいのだろうか?

このような諸々の疑問こそが、今日閉会したドイチェ・ヴェレ・グローバル・メディア・フォーラムの後半部分のメインテーマだった。今日、私たちはみな参加者だ。もはやプライベートなものなどなく、私たちは誰もが互いのことに興味津々だ。ある意味、誰もが“市民ジャーナリスト”なのだ。

しかし、私たちが期待している変化とはどこにあるのだろうか?どうすれば、積極的な参加を現実の行動に変えることができるのだろうか?

どんなブログも、マドゥロや、アッシーシや、アサドを退位させることはできない。是非はともかく、あれだけのことを成し遂げたにも関わらず、ウィキリークスは自らが告発した巨大な軍事諜報組織を倒すことができなかった。それならば、これら全ての参加行動または直接行動に、一体何の意味があるのだろうか?

#BringBackOurGirlsのキャンペーンの発起人の一人の(名前は失念してしまったが)ナイジェリア人女性の話を聞いたとき、私はこの問いについて考えていた。入り組んだディベートの後で(何よりここはドイツなので、複雑なことはシンプルにするのが一番、というわけで)聴衆の一人が、少女達がまだ行方不明であるということを踏まえた上で、「結局のところこれは一体何のためなのでしょうか?」と女性に対して質問した。

彼女が答えに窮している間、私は一つの結論に到達しようとしていた。つまり、この活動に希望など皆無だということだ。どんなブログにもベネズエラの地で起きている現実を変えられないのと同じように、実際のところ、どんなTwitterキャンペーンもボコハラムを止めることはできない。

しかし、そこで彼女が言った言葉は、私の心に深く残るものだった。「参加することで、私たちはより人間らしくあることができるから」と彼女は言ったのだ。

たとえ、そのせいで自分のよく知らない問題に首を突っ込むことになるとしても、あるいは単に間違った人々をサポートしてしまい、問題解決から遠のくことになるとしても、ネット上での参加や社会運動とは、人々とコミュニケーションすることに他ならない。つまり、ほんの一握りの人々を変えることで、最終的な目標に少しでも近づけるようにすることなのだ。

究極的には、私たちがブログをやるのは、それが可能だからであり、私たちがブログを読むのは、それによって他の人々と繋がる助けになるからだ。私たち人間には、どういうわけか動物よりずっと自由に使える器用な手があり、それによって文字を打ったり、コメントを書いたり、クリックしたりできる。

この問いには簡単な答えはないのだろう。確かに、ブログや他のネット上の社会運動はどんな変化を起こすこともできない。それはナイジェリアでも明らかだし、カラカスの通りを見ても明らかだ。萎んでしまったアラブの春を見てもそうだ。もし実際の政治的な変化をどれだけ起こせたかということを基準にすれば、ネット上での参加など大失敗もいいとこだ。

だけど、そのような評価基準はおそらく間違っている。ボコハラムを恐怖の代名詞とすることであれ、民主主義をほんの少しでも信じる人にとってチャベス主義は許容できないものとすることであれ、ブログとは人類共通の意識を高めるものだからだ。

その点でいえば、私たちや、あなたたち、そして彼らは、成功例といえるのではないだろうか。

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