ラ米専門家の伊高浩昭氏によるチャベス本の誤訳、誤読、内容の歪曲がひどい(追記あり)

(当記事はCaracas Chroniclesにて英語版を同時公開中 A Superb Book, Lost in Translation 

rory

待望の書だったんだけど

英紙ガーディアンの記者ローリー・キャロルによる『ウーゴ・チャベス ベネズエラ革命の内幕』(伊高浩昭訳、岩波書店 2014年)は、21世紀の南米のカリスマ政治家、故ウーゴ・チャベス大統領の政治と生き様を、チャベスの元側近、政庁や政府の末端で働く人々へのインタビューを通じて多角的に描き出したルポルタージュである。

本書は、チャベスの施政について日本語で読める数少ない貴重な本のはずだった。しかし、ラテンアメリカ専門のジャーナリストでピースボートの船上講師、立教大学の講師でもある伊高浩昭氏による日本語訳には、多くの誤訳、誤読、さらに内容の歪曲が見られ、原著の内容と質を著しく損なっている。

そこで、私が著者に対して行ったインタビューを踏まえ、特に問題と思われる部分を明らかにし、著作本来の内容をここで紹介したい。

『ウーゴ・チャベス −ベネズエラ革命の内幕』

著者ローリー・キャロルは、2006年から5年間のカラカス赴任中に集めた資料に加え、本書のためにチャベスの周囲で働いた人々へインタビューを行い、公務員たちや草の根レベルで尽力する地方の無名の人々の複雑な思いに光を当てる。そして、人々のチャベスに対する尊敬や怒り、自分の役割に対する葛藤、自己弁護、後悔などを通じて、ほとんど伝えられることのない革命の裏側を丁寧に描きだしていく。そこが、本書が他のベネズエラ本と一線を画している点である。

本書は『百年の孤独』の作者ガルシア=マルケスがチャベスと同乗した飛行機の中のシーンから始まる。そこでガルシア=マルケスは、チャベスはIllusionist(イリュージョニスト、奇術師)となるか、一国を救う真の救世主となるか、と未来に思いを馳せる。この問いが本書の出発点となる。

ところで、イリュージョニストと救世主の共通点は何だろうか。それは奇跡、ミラクルを起こす点だ。ただし、救世主(メシア)が「本物の奇跡」を起こす存在であるのに対し、イリュージョニストとは大掛かりな仕掛けを使って「まがい物の奇跡」を演出する手品師をさす。プリンセス天功だ。

実際、チャベスは大統領就任中に多くの奇跡を起こした。

長年ないがしろにされてきた貧しい人々に焦点が当てられ、彼らは政治的主体としての誇りと自ら政治に関わる権力を手に入れた。チャベスはそれまでのエリート政治家とは違う、自分たち人民を代表する政治家だった。

またチャベスが大統領に就任していた間、石油価格は跳ね上がり、それがチャベスの奇跡を資金的に支えていた。ミシオンと呼ばれるプロジェクトによって提供された無償の医療や教育、公営住宅。中には、その名もミシオン・ミラグロ(奇跡のミッション)という白内障により視力を失った人々に治療を施すプロジェクトもあった。大型のSUV車を満タンにしてもタダ同然のガソリン、原価よりも安い値段で販売された生活必需品。そして、選挙前には洗濯機やテレビなど電気製品が大盤振る舞いされ、聖書の奇跡さながらに、富はばらまかれた。

しかし、これらの奇跡によって、ベネズエラは本当に救われたのだろうか?あるいは、これらは一時の夢、見せかけだけのペテンだったのか?それが問題だ。本書は、チャベス政治の「中の人」の証言を軸に、この問いに答える。

結論から言えば、チャベスは救世主ではなくイリュージョニストだった。それはベネズエラの現状を見れば明らかだ。

「奇跡」が起きたのは、チャベスのマジックショーのスポットライトが当たったその瞬間、その場所だけだった。カラカスから遥か南方ブエノスアイレスまでを繋ぐ5000kmに渡る鉄道の計画。カリブ海に浮かぶ人工島のネットワークの計画。無数の独創的で画期的なプロジェクトが立ち上げられたが、チャベスの興味が薄れると忘れ去られ、朽ちていった。かと思えば、時々思いつきでテコ入れが行われ、またすぐに忘れられ、問題は放置された。

14年間に渡るチャベスによる行き当たりばったりの政治の結果、国はぼろぼろになった。この間に失われたものはあまりに大きい。国内の産業や農業、それを支える多くの人材、美しい環境インフラ設備、適正価格で販売されていれば手に入っていたはずの幻の石油マネー、マイノリティの人権、それらは夢のように消えていた。貧困は増加している。にも関わらず、チャベスが目の敵にしたエリートたちは、一掃されるどころか、相変わらず特権を謳歌している犯罪はかつてないほどに猛威を奮うが、政府はそれをとどめる術を知らない

カリスマ政治家と莫大な資金。条件は揃っていたが、チャンスは無駄になった。今もなおベネズエラ政府による茶番は続いているが、チャベスの理想、ベネズエラの明るい未来は、政府のスローガンと政府広報のビデオの中にしか存在しない。

このように、本書は今日のベネズエラとその土台を築いたチャベスの施政の裏側を知る上で、信頼に足る、日本語で読める数少ない貴重な本である。ベネズエラに興味のある全ての人にとっての必読の書・・・・

のはずだった。

キーワードの誤訳と誤読

ところがどっこい、伊高浩昭氏による日本語訳は原著とは似て非なるものである。誤訳が多く、内容が原著とかなり違う。残念ながら、先に書いたような内容を伊高氏の翻訳から読み取ることは不可能だ。

伊高氏が訳者あとがきで述べているように、本書のキーワードは、Illusionist(イリュージョニスト)と、Stage(ステージ、演劇の舞台)である。

しかし、伊高氏はこの主要なテーマであるIllusionistを「夢想家」と訳しているのだ。
なんで夢想家???なぜにドリーマー?そもそもIllusionistに夢想家という訳はなく、意訳にしても本書の内容にそぐわない。本来なら間違いようのない最重要ワードの誤訳である。

また伊高氏は「演劇の舞台」について次のように解説する。

*15 本書冒頭の「謝意」に著者は「チャベスが政庁を演劇の舞台に変えた」と書いている。巻末で「演劇」と言う言葉を使い、係り結びのように本書を締めくくっている。[第12章 夢想家 訳注 p.274]

係り結び?????
しかも、一度ならず、あとがきでもこの意味不明な「係り結び」の説明が繰り返される。

演劇の舞台の比喩について、私が著者本人にスカイプ・インタビューで尋ねたところ、ローリーは次のように話した。

「演劇の舞台(stage)の比喩はとても役に立ったと思う。チャベスはエンターテナーで、根っからのパフォーマーだったし、何よりメディアを掌握していた。チャベスが登場すれば、いつでもどこでもショーが始まった。チャベスは全てをショーに変えてしまったんだ。そこでは、トゥルーマンショーのように全てが作り物だった」

ローリーが「チャベスが政庁を演劇の舞台に変えた」という時、それは文字通りの意味なのだ。それを、最初と最後で「演劇」という単語が出てきたからといって日本の古典文学のレトリックで説明するというのは、苦しまぎれすぎる。

伊高氏は、本当にこの二つのキーワードをちゃんと理解していたのだろうか。

訳注で著書の記述に土足で割り込む

また、伊高氏は訳注と称して著者の本文に割って入り、個人的な見解を述べている。日本の読者の理解を助けるための訳注ならともかく、読者の誤解を引き起こしそうな記述も一部見られた。

例えば、レオポルド・ロペスについて、

*7 二〇一四年二月、カラカスをはじめ各地で反政府行動が始まった際、「マドゥーロを引きずり下ろせ」と叫び、暴動を煽動したとして逮捕され、反政府勢力の極右の前衛として脚光を浴びた。[第6章 戦の技術 訳注 p.147]

とある。まず、この逮捕は政府による不当な人権侵害だ。それにロペスの政治活動の背景にあるSalidaなどの学生運動との連携に一切触れず、政府のプロパガンダをそのまま持ってくるのは、いかにロベスと意見を異にすると言えども、さすがに公平さに欠けるのではないだろうか。

ペタレ地区:Caracas Shots

また別の註では、ペタレ地区を「カラカス首都圏の一地区。ミランダ州スクレ市に属す」(p.236)、カティアを「カラカス市リベルタドール区スクレ地区の中心地」(p.236)としているが、ペタレ地区やカティアといえば、まず貧困街であり、ペタレは反政府支持派が多く、一方カティアは政庁ミラフロレスのすぐ横に位置し過激なチャベス派が多い点くらいは押さえておいて良いはずだ。

どうせ訳注をつけるなら、ベネズエラではみな知っていても、日本の読者には馴染みが少ないと考えられる地政的事項に触れなければ無意味だろう。何より、著者の見解と異なる翻訳者個人の思想に基づいた見解を、訳注と称してこっそり本編に紛れ込ますのは卑怯だ。

伊高氏の英語力に対する疑惑

「第11章 抗議」では、当初チャベスを信奉していた人が反旗を翻し抗議に至る様子や、チャベスを信じて投票した人が政府に裏切られ、失望していく様子が描かれる。またチャベス政治の不誠実を認識しながら、チャベス主義や政府から離れられない人々の葛藤を描いた、本書の鍵となる部分である。

しかし、この当たりから致命的な誤訳が目立つ。

このような批判の声は、政庁の耳に届かなかった。多くのコミューン評議会がぐらついていた。チャベスが人民に権力を移しているという幻想を、誰も語らなくなった。将軍たちは忠誠度によって厳選された者ばかりだが、私腹をたっぷり肥やすことが認められていた。日和見主義者はだんまりを決め込みつつ、一緒にちょこっと動く。[第11章 抗議 p.252] (太字:野田)

実を言うと、誤訳の可能性に初めて思い当たったのは、この文章を読んで「一緒にちょこっと動くって何?」と思ったのがきっかけだ。そして確認のために原文を読んで、のけぞった。

Such criticism remained unheard in the palace. Even as many communal council faltered, and with them the conceit that Chávez was delivering power to the people, nobody spoke out. Generals, of course, were handpicked loyalists and for good measure allowed to stuff their pockets. The opportunists bobbed along, playing dumb.(太字:野田)

まず、伊高氏はand with themの内容も、to the peopleの後にfalteredという動詞が省略されていることも理解していない。さらに、チャベスに忠誠を尽くす軍部へのシンパシーの表れか、for good measureという追加の意味の成句を、あえて逆接で訳している。

The opportunists bobbed along, playing dumbについては、辞書で調べました、キリッ。という感じか。play dumbは黙っていることではなく、馬鹿なふりをして気付かないふりをすること、bob alongは水の上などをどんぶらどんぶら漂うことを表す擬態語だ。それを「ちょこっと動く」ってww

そもそも伊高氏には本を一冊翻訳するには英語力がちょこっと足りないのではないかと疑いたくなる。

コミューン評議会の存在は、行政の主体を政府から人民へ移行するというチャベスの理想を体現していた。したがって、コミューン評議会が機能していないという事実は、「人民による直接政治」という考え自体が機能していないことを意味していた。ちなみに、「チャベスが人民に権力を移しているという幻想を、誰も語らなくなった」というのは訳として間違っているだけでなく、事実に反している

意訳するとこうなる。

このような批判の声が、政庁内まで届くことはなかった。多くのコミューン評議会がぐらついた。そして、それは「チャベスが人民に権力を引き渡しているのだ」という理想自体がぐらついていることを意味していた。しかし、それを口にする者はいなかった。軍上層部は、当然ながら選りすぐりの忠臣ばかりで、おまけに私腹を肥やすことも認められていたし、日和見主義者たちは気付かぬふりをして状況に身を任せていたからだ。

歪められた「第三の勢力」像

続いて、小見出しにもなっている第三の勢力について。

ここでいう第三の勢力とは、軍上層部のような私腹を肥やすガチガチのチャベス派でも、無責任な日和見主義でもない、ベネズエラの社会を良くしようという理想に燃えていた進歩主義者、フェミニスト、労働組合のリーダー、先住民のための人権活動家などのことである。

著者は、チャベスは1994年にクーデター未遂事件で投獄された時点では資金も組織も政治経験もなかったが、この第三勢力の後押しによって1998年の選挙で勝利できたと指摘する。そして、この民主主義に対する信念をもった人々は、チャベスの理想が徐々に崩壊していく中で、一体どうしていたのだろうか、と問う。

しかし、それに続く部分の訳で、伊高氏は論理のポイントを見失っている。

革命の理想が衝突すれば、それは後を引くだろうし、離反者を出す要因になるだろう。だが、徐々にずる賢くやれば、とがめられることはなかった。司令官が候補者を押し付けるために政権党の草の根党員を威圧したとすれば、それは戦略的必要からだろう。腐敗の証拠を隠蔽したとしたら、その時宜が微妙な問題になる。すべてがチャベスになるまで、余分な原則を削れ、削れ、削れ。[第11章 抗議 p.252]

原文はこれ。

A single smashing of revolutionary ideals would have been traumatic and triggered an exodus, but incremental chiselling permitted exculpations. If the comandante overruled party grass roots to impose candidates, well, there was strategic need. If he ignored evidence of corruption, well, the timing was delicate. Chip, chip, chip at principles until all that was left was Chávez.(太字:野田)

チャベスは時を経て独裁的になっていき、進歩主義者の理想と矛盾する政治を行うようになっていた。彼は女性の権利拡大を訴えながら平気でセクハラ発言を行い、環境保護を訴えながら汚染水を垂れ流しても平気で、先住民の権利拡大を訴え、先住民の憲法の条文を変えるパフォーマンスは行ったが、実質的な先住民へ向けたサービスの充実や支援などには無関心だった。

本書の中でも、2002年のクーデターでチャベスを救った立役者でチャベスの盟友だったが、後に政敵となるラウール・バドゥエル将軍が、「チャベスの唯一の関心事は終身大統領になることだった」( p.141)と証言している。

そのチャベスが、もし「女や労働者や先住民の権利なんてどうでもいい。俺は知らん」と宣言したらどうか。これがa single smashingである。そうなれば、第三勢力は怒って離反していったはずだ。しかし、チャベスは革命の理想に反する政治を少しずつ進めていったため、第三勢力は反抗する機会を逃し、結局、離反しなかった。ゆでガエルである。

この部分は意訳するとこうなる。

もしチャベスが革命の理想を叩き潰すようなことをしたら、これは大きな傷となり、離反者を出す要因となっただろう。しかし、チャベスはそれを徐々に行ったため、その責をとがめられることはなかった。司令官が草の根活動を行う政権党に対して有無を言わせず候補者を押し付けてきたとしも、それは仕方ない、政治戦略上、必要なことだったのだから。彼が汚職の証拠を隠滅したとしても、それも仕方ない、政治的に微妙なタイミングだったのだから。革命の信条がチャベス、ただそれだけになるまで、削って削って削って・・・

ちなみに、この革命の信条として残るはチャベスのみという状況は、2014年現在においてさらに顕著である。

政府のスローガンは「永久司令官に捧げる」「チャベスは生きている」という言葉で溢れかえっている。今年3月、この「チャベスだらけの音楽祭」に東大のベネズエラ音楽楽団が参加していたことは、当ブログでも伝えた。チャベスの筆跡のフォントが公開されチャベスの署名のタトゥーが無料で市民に施され、死してなお誕生日が盛大に祝われ教会のミサでの祈りの言葉に登場し2014年に最もベネズエラの文化の創造と推進に貢献したとして文化賞まで授与されている。

どこもかしこもチャベス、チャベス、チャベス、だ。

さらに続きの部分で、ローリーはこの第三勢力の人々がいかにチャベスを黙認してきたかを描写し、次のように問いかける。

If power corrupts and absolute power corrupts absolutely, what of those who did not wield power but merely hovered around it, inhaled it – were they contaminated? The coalition of progressives, after all, had possessed an integrity alien to the kleptocratic generals and boligarchs.(太字:野田)

これを伊高氏は次のように訳す。

権力は腐敗し、絶対的権力は絶対的に腐敗するとすれば、権力を持たず単に権力の周辺にたむろし、その空気を吸う者は汚染されるのだろうか。進歩主義者らは結局は、泥棒政治の将軍やボリガルキーアとは反対の誠実さを維持していたということになる。[第11章 抗議 p.253](太字:野田)

伊高氏は「(今も)進歩主義者たちはこれらの盗人たちとは違う」と言いたげだ。しかし、原著で表現されているのは「(以前は)盗人たちとは違った」が、今は盗人と同じになったことを示唆する皮肉である。ここでも伊高氏は、自分の思想に基づいて、著者の意図を勝手に変えているように見える。

ちなみに、ボリガルキーアとはボリバル革命における利権によって台頭した新興のオリガルキーア(寡頭勢力)のことで、意訳すればこうなる。

もし権力は腐敗し、絶対的権力は絶対に腐敗するのであれば、権力を持たず単に権力の周りに漂い、その空気を吸っていた人々はどうなるのだろう。彼らは権力に汚染されてしまったのだろうか。進歩主義者らは、元々は泥棒政治の将軍たちやボリガルキーアにはみじんもなかった誠実さを持っていたのに。

ここから話は、第三勢力がどのようにこの誠実さを失っていったかへと続く。著者は、政府への不満を抱えながら政府の仕事にしがみつく女性の話を紹介して、次のように評する。

真の専横政権に仕える者は、少なくとも自分自身に、選択肢がないため命令に従っていると言い聞かせるだろう。チャベスの無血統治は、肉体的恐怖という言い訳を許さない。不服従は失職につながっても、首を切り落とされることはない。彼らは、プラスチックの剣の前に依然跪いていた。[第11章 抗議 p.253-p.254]

話にならない最終章。で、係り結びって何ですか?

原著の最終章のタイトルはTHE ILLUSIONIST(イリュージョニスト、奇術師)である。日本語版では「夢想家」となっており、これが洒落にならない誤訳であることはすでに述べた。

この最終章で、著者はチャベスが癌闘病中、病気をいかに隠して国民の前に立ったか、死の前年の選挙にどのように臨んだか、そして後継者のマドゥロ現大統領の指名から、病状が一切非公開のまま突然その死が公表されるまでの様子が描写される。
チャベスの最後にして最大の決死のイリュージョンの舞台裏だ。このイリュージョンは、当時景気が低迷していたにも関わらず、ありったけの公的資金を選挙資金として投入したために、2012年だけ突如景気が上向いたように見えるほどに、壮大なものだった。

本書の結論部分「空っぽの革命」は次のような文で始まる。

ウーゴ・チャベスの遺産は雑多だ。司令官は、真の業績を誇ることができたかもしれない。バリオの住民に多数派であることを教え、テーブルに就くべき場所を定めた。彼らに尊厳をもって生きる権利を持つ人間であることを教えた。カラカス盆地の所有者を自任していた富裕層を、マイアミで石油外貨を使って買い物をしながら丘陵地帯のスラムに無関心だとしかりとばした。富裕層が既得権益を当然視するのはさもしいことだと批判した。それは正しかった。[第12章 夢想家 p.274-p.275](太字:野田)

まず、太字部分の原文はHe could boast real accomplishments. である。チャベスは確かにイリュージョニストだったが、いくつかのリアルな功績も残していた。その功績とは、バリオ(貧困街)に住む人々に勇気と、正当な国民であるという誇りを与えたこと。そして、富裕層が貧困層に対して無関心なのは悪いことだと国民に知らしめたこと。また、民主主義の草の根活動を応援し、ヨーロッパ中心の歴史ではなくラテンアメリカのインディオスの遺産を称賛した。チャベスはラテンアメリカの未来に誇りを持っていた。

著者は一貫してチャベスの政治に批判的だが、この点は「正しかった」と認めている。だからこそ、「司令官は、真の業績を誇ることができたかもしれない」ではなくて、「司令官は、真の業績を誇ってよかった」あるいは「誇ることができた」と訳すべきだろう。なぜ、伊高氏は不必要に著者の意図を変えようとするのか?

この「意訳」のせいで、後に続く「しかし〜」の逆説部分も論理的な整合性がなくなっている。

しかし、残っていた遺産は使い果たされた。貧しい人々のために働く崇高な政治家、富豪クロイソス王のように巨額資金に物を言わせた権力と結果は大失敗だった。(中略)
ベネズエラは痩せ衰え機能しなかったが、資金と壮大な見せ物があった。空っぽの革命だった。

天国でも地獄でもなく、その中間の辺土リンボだった。陰鬱で霞んだ中間地帯であり、そこでは野心と欺瞞が古くからの物語を演じていた。道化芝居と風刺劇(フォーリーズ)は専制の恐怖とは縁遠かった。だが、別の可能性もあったのではないか。それが萎えてしまったのではないだろうか。展開された演劇*15はそのような物悲しい批判に耐え忍ばねばならない。そこに悲劇があったのだ。[第12章 夢想家 p.275] (太字:野田、段落の変更は原文ママ)

原文はこうだ。

Yet the abiding legacy was waste. A sublimely gifted politician with empathy for the poor, the power of Croesus and the result, fiasco. (…)
Venezuela atrophied. Nothing worked, but there was money and spectacle. An empty revolution, then. No paradise, no hell, just limbo, a bleak, misty in-between where ambition and delusion played out its ancient story. The farces and follies did not add up to despotic horror but they bore the melancholy echo of opportunity squandered, of what might have been, and there was the tragedy.(太字:野田)

とにかく、最後のパラグラフの訳は最悪だ。受験英語の英文和訳問題で、「わからなかったけど白紙で提出するわけにはいかないから頑張って言葉上の辻褄を合わせて部分点狙いに走った回答」みたいである。

まず、「残っていた遺産が使い果たされた」のではなく、チャベスにより残された遺産が「無駄遣い」つまり、石油資源や人的資源、チャンスなど、あらゆるものの無駄遣いだったのだ。ベネズエラは莫大な負の遺産を受け継いだわけだ。

A sublimely gifted politician(すばらしい才能に恵まれた政治家)をa sublime politician(崇高な政治家)と訳すあたりが、伊高クオリティである。

また、「空っぽの革命だった」の後であえて段落を変更しているが、これには私の知り得ない隠された理由があるのだろう。

さらに、伊高氏はfolliesを風刺劇とした上で、ご丁寧にフォーリーズとよみがなを振っており、これも謎である。ここで想起されるのはむしろ「気違い沙汰」である。

この茶番や気違い沙汰は専制の恐怖にはならないだけマシとはいえ、虚しいものだった。それが悲劇だった。終わり。

これを、主語をわざわざ「展開された演劇」と変えた上に、係結びの法則(!)を持ち出して、echoを「批判」と訳すという、奇術師もびっくりの意訳である。
これを見て、「伊高氏は自分の翻訳した本のラストの一文をちゃんと読解できなかったという物悲しい批判に耐え忍ばねばならない」と思うのは私だけだろうか。

意訳するとこうなる。

しかし、最終的にチャベスにより残されたのは、浪費された資源という負の遺産だった。たぐいまれな才能を持つ政治家には貧しい人々に対する共感とクロイソス王にも劣らぬ資金が備わっていたが、その治政は大失敗だった。(中略)
ベネズエラは劣化していた。何も機能せず、ただ金と見せ物だけがあった。結局、むなしい革命だったのだ。天国もなく地獄もなく、ただ辺土(リンボ)だけがある。その荒涼としておぼろげなどっちつかずの場所で、昔ながらの野心と勝手な妄想が相変わらず演じられていた。そこで繰り広げられるドタバタ劇の茶番や気違い沙汰は、専制政治の恐怖になり果てることはなかったが、ふいにされたチャンスや、もしかしたら実現されていたかもしれない明るい未来を思わせる、哀しい響きを帯びていた。そこにベネズエラの悲劇があった。

チャベスの掲げる理想が現実のものとなっていれば、あれだけの石油マネーが有効に使われていたら、一体どれほど多くの人々の生活が改善され、貧しい人々が救われただろうか?せっかくのチャンスがドブに捨てられた後の無力感、大切なものを多く失った哀しさ。この「むなしい革命」の悲哀は多くのベネズエラ人に共有されている。

本書がベネズエラ人の抱えるむなしさや哀しみに寄り添う形で締めくくられるという点が重要なのだ。チャベスをただイリュージョニストとして断罪するのは簡単だし、ありふれている。しかし、なぜ、どのようにしてチャベスは救世主になり損ね、イリュージョニストに成り下がったのかを説明するのは難しい。それは、現チャベス支持者や元チャベス支持者に対する共感をもってして初めて可能だったのだと思う。

だからこそ、伊高氏の訳した結論部分が単に誤訳であるだけでなく、そこからベネズエラ人に対する共感が一切感じられないのを見ると、残念を通り越して怒りすら覚える。

著者の緻密な仕事に泥を塗る翻訳

ローリーがチャベス及びマドゥロ政権に対して批判的で、そのため政府側からは「チャベス派の敵」と見なされていることは周知の事実だ。しかし、本書の価値はチャベス批判ではなく、緻密に裏付けされた調査にある。

現在、メディアを通じてベネズエラの正確な状況を知るのは容易ではない。本書にあるように、地元紙は「司令官を悪魔のごとく罵るものと礼賛するものとに分極化した党派性の強い新聞ばかり」(p.21)で、政府系メディアにしろ、反政府系メディアにしろ、信頼できる情報源が極端に少ないのが現状だ。政府は嘘を言うが、だからと言って、それを批判する反政府メディアが潔白なわけでもない。反政府メディアにも誹謗中傷や誤情報が溢れている。

このような中で、噂を排し、膨大な数の証言を集め、裏付けを取って書かれた著作の重要性は計り知れない。さらに様々な利害が交錯する中で、ジャーナリストという立場で政府に関わる人々に接触し、語ってもらうことがいかに困難かは、想像に難くないだろう。

訳者あとがきを読む限り、伊高氏はチャベス主義を始めとする南米の共産主義、社会主義革命にかなり強いシンパシーを持っているようだ。それ自体は仕方ない。しかし、ローリーの緻密な仕事に対して、伊高氏の杜撰で、原著に泥を塗るような翻訳は何なのか。

もし、伊高氏が思想的にローリーと対立しておらず、誤訳が単なる知識不足によるものなら、三流の翻訳者による残念な翻訳で済んだ話かもしれない。しかし、間違えようのないキーワードの誤訳、ミスリーディングを引き起こしかねない訳注、誤訳というには不自然すぎる翻訳を見ると、伊高氏は自らの思想バイアスのために原著の内容を曲げて解釈していた可能性が高い。

岩波書店の編集は、伊高氏に翻訳を任せる際、思想的な立場から誤訳や誤読、内容の改竄が行われるリスクが高まることを考慮しなかったのだろうか。読み比べれば誤訳は明らかなのに、発行前に内容を確認しなかったのだろうか。この点については岩波書店の責任も大きいと思う。この件については、翻訳エージェントを通じて伊高氏と岩波書店編集にコメントを求めたが、回答は得られなかった。

日本語で読めるベネズエラに関する本は少ない。特に、専門家によって書かれた内容的に信頼できる書籍はほとんどない。だからこそ本書に寄せる期待も大きかった。しかし、伊高浩昭氏の翻訳は、誤訳、誤読、内容の歪曲が見られ、とても原著のクオリティを保っているとはいえない。

本当に残念だ。

長々と書いたが、今こそ筆を置かめ。


追記 2014年12月1日
英語版の記事A Superb Book, Lost in Translationに対する著者ローリー・キャロル本人のコメントはこちら

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中